荒木孝文-そのまんま荘オーナーの呟き-

都内で地方就活生が無料で泊まれる「そのまんま荘」というゲストハウスを3年間やっています。

ねえねえ

他人の想いに触れて気付いたこと。

自分には”我”がある。

 

それも、すんごい強い奴が。我というやつは、こう主張する。

「自分は こうしたい!」「あれは、好き!」「これは、嫌い!」

 

次に、重要な点に気付いた。その”我”は 誰のためのかというと

どうやら、自分の為みたい。

 

 

星を拾いたい、と欠片を集めている王子さまがいたとして、

きっと僕の目を通すと、彼は 自分の為に拾っているのだろうか?と感じるのだろうな。 

 

 

一つ視点を上げてみたい。

自分の為の”我”、こやつの視点を、 一つあげてみたい。

 

人類の為の”我”というやつに。

 その、人類に自分は内包されているのだから、非常に都合の良い話な気がする。そんな、気がする。

 

 

人類に、自分が内包されている。 

そんな、都合のいい話って あるのかな。 

 

きっと、ないのだろうし、あるのだろう。

なぜなら、どうやら 問い詰めれば問い詰める程に 

この世界には 意味がなく、そしてあるのだから

 

 

具体的に表す。本当に生きている意味なんて全くもって白紙なのだ。

そこに、何も記さなければ その通り、何も無い。だから、意味がない。

だけれども、そこに何かを書こうとするならば、 そこには 字が(自我)生まれる。絵が(画が)生まれる。だから、意味がある。 

 

(ヒント:文字が見えない場合はマウスで囲ってみてください。)

 

 

いま、僕たちがやろうとしている行為は

その”字が(自我)”の次元を一つ上げ、”天我”みたく

しようとしているのだと、推測される。

 

 

天とは即ちなんぞや?自分とは即ちなんぞや?

分からん。されども、分かることは

天上天下唯我独尊” だ。

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よく誤用されて、自分だけが正しいと思っている!みたく勘違いされているので

以下に本来の意味を。

 *1


天上天下唯我独尊の本当の意味は、
自分という存在はこの世に一人だけ、だから尊いという
人間の尊厳を説いた立派なもの。

 

自我の果てに天我があるのか、

はたまた、自我を究めること そのものが、尊い行為なのか。

 

僕には、未だ分からない。だけれども、問うてゆくことは

人の存在を問うことであり、生き様そのものであるのでは?そう、感じている。

 

 

関連がないかもしれないが浮かんできたので記し〆る。

繊細で分厚い哲学の世界。 門をたたけば、広がる 行燈(あんどん)の道(未知)。

そこに通ずるのだろうか、この問いは?

 

それとも、無なのだろうか そもそも 目の前に広がる景色は?

ああ、人生を哲学する この行程。

どう廻ったとしても、最後には 肯定できるといいな。

 

 

想いに絶望と希望を乗せて、関西より。

 

2017年12月26日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:引用